昭和五十六年七月一日 朝の御理解


御理解第八節
子供の中に屑の子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。


 信心のない者は真の道を知らぬも同じ事で、天地の親神様がお嘆きのお言葉であります。いわゆる今日の御理解もその屑の子程、無信心者程と神様が信条をとろしております。信心のない者、又は信心を頂いておる者でも、折角縁を頂きながら、本当の神様が願うておられる、毎日総代さんが朝のお届けの中に「どうぞ親先生に安心して頂ける信心」というところがありますよね。いわゆる神様に喜んで頂く信心。もうこの氏子は大丈夫と安心して下さるような信心を身につけたいという願いでございましょう。
 そういう信心をいよいよ目指さして頂くことだと思います。折角御縁を頂いて信心さして頂いては、この氏子はなかなか熱心だ、名神だと云うて神様がお喜び、いや安心して下さろうとしておる所へ、何かちょっとしたことやら、自分の思うようにならなかった事でも、もう私達は信心じゃダメだ、私はおかげ頂き、きちんと自分で決め込んで信心を中断したり止めたりしていく人なんかの場合なんかは、もうどうにもしようがないほど、神様は残念に思われる事だろうとね、折角縁を頂いた。さあ、ここにまた一人助かる氏子が出来るぞ、助かる氏子がでければ、また、その周辺にも助かる氏子が出けるに違いないと、思われるのもつかの間ね、それを中断、いうならば信心を怠ったり、止めていくいうような人達なんかは、もう屑の子のまた、屑のこの様な感じが致します。
 昨日はあのように、盛大な今年はお届けの数が四千五百余りありました。もう先ず、三人の先生方が昨日遅うまでお届けがかかりました。というように、繁昌というか、賑わったわけであります。ですからその一人一人がね、いよいよ神意人の道というか、神様に安心してもらえるような信心を目指されるとしたら、素晴らしい事だろうとこう思います。
 そこでまあ、思わせて貰うんですけれども、なら神様に安心して頂ける信心、いうなら屑の子ではない。親孝行の子としてね、神様が愛で喜んで下さる信心とはどういう信心をいうのだろう。まあいろいろまあ、分からしてもわらなければならんと思うですが、昨日は月末御礼信話会でございましたから、昨日はいつも常連というか、いつも見える方達がやっぱり、ああいう大きなお祭りを皆、頂いておられました後だったからでしょうか少なかった。
 所が昨日は宮崎地方から参拝しとらる方達が、今日まで今日の夏期信行を頂いてというのでしょうか、皆残っておられましたから、やっぱりいつもよりも替えって素晴らしい、いわゆる信心共励といういや神話会ですね。ひと月おかげを受けた話を皆さんが発表されました。もう一人一人にそれこそ拍子喝采というようなお話でした。本当にこの調子で信心を進めていかれるなら、今日の御理解じゃないけれども、神様も喜んで下さるだろう、安心して下さるだろうというようなお話でした。
 まあ二、三拾ってみますと、石川のお婆ちゃんが発表しとられます、合楽に御縁を頂いた親先生から初めて頂いた御理解は「石川さん、一生か修行ですよ」といわれた。もうそん時にです、何か腹が決まった。それからというものはもう本当に、いつもいろんな体験を混えて、話しておられたら、私それを頂いておりましたら、御心眼にね、ここのお広前の畳の黒い縁が全部除かれていくところを頂いたんです。
 どういうことだと思いますか、昨日の朝の御理解の中には、岩部先生のならば信心も剣道の稽古をするのと同じ事、見ておるだけじゃない、自分が先ず防具をつけて竹刀をもって稽古しなければ、いうならば段を一段一段上がっていくことも出来ないという御理解でしたが、昨日は柔道ということを頂いたんです。成る程柔道の道場なんかという、これは御本部のこれは御本部のお広前のお広前がこの黒い縁なんですね。
 いわゆる柔道の稽古場なんかの畳はこの縁がありませんね。勿論この縁はご覧の通り黒ですから、苦労をとってしまうということ。もう一生が修行だと本気で分かったらその方の場合は一生がもう苦労はないということです。素晴らしいでしょう。一生苦労がないというのですから。
 問題はね、ただ云うておるだけじゃいかん。本気で一生が修行と自分の頂き方の中にその修行の内容をいよいよ高めていくと云うこと。ね。私はその事を頂いて、皆さんにも聞いて頂いたんですけれども、和同十全と合楽の信心は云われます。ここがちょっとおかしいなあと、ここはおかげ頂くけれども、ここん所はどうもという、云うならば、本当に天地の道理に適うたね、云うならば、人間が人間らしゅう生きる手だてを身につけながら、力を受けていこう、お徳を受けていけると云うのが合楽の信心です。ね。
 私はその柔道と云うことからね、いや和同十全というものを連想したんです。そういう完璧な信心を身につけていこうというのですから、しかもこれが深く広く大きくというのですから、限りがあってよかろうはずがありません。もう生涯、一生が修行だと金光大神が云うておられるように、学者がね年をとっても眼鏡をかけてでも本を読むようなものであろうぞいと云うておられるような、修行に腹が決まった所から、もうその人の上には、苦労がないということになるでしょうね。
 はあ難儀と脇から見たり、難儀に見えるかもしれませんけれども、本人は修行と受け取るけん、はあこれでまた一段上がらせてもらう。本気で構えがでけとるから、成る程柔道の稽古をさせてそれこそ、縛られたり、投げられたりもありましょうけれども、その都度都度にならば、力が技が身に付いてくる。それが楽しいのである。ね。私はそういう腹をくくった人の上に、今日の御理解から云うなら、神様が安心して下さる、喜んで下さると思うですね。どんないいどく投げられてもです、そりゃ投げられることもなりましょう、もう絞め殺されるごたる事もあるかもしれませんね。
 けれどもそれによっていよいよ力を受けていこう、それによって徳を受けていこう、いよいよ光を頂ききっての光を自分の周辺にもその光の輪を広げていこうと云うような、いわゆる、志が立てられ決め、決められた人の私は上に屑の子程ではなくてね、親孝行な子、あの子が居ってくれるからと神様も喜び安心して下さるということになるのじゃないでしょうか。
 折角信心さしてもらうなら、そこん所のね、ひとつ締めくくりがピシッと出蹴るようなおかげを頂きたい。そりゃ本当に、昨日はあのう高橋さん、宮崎の高橋さんですけれど、発表しとられましたが、いろいろ今年が丁度五年の、支部が出けましてから五年になる。それでもう宮崎支部も延岡ですね、高鍋各分会の方達が何回も何回も幹部の方達が寄って、まあだ十一月ですが、皆そう云うことの親先生をお迎えしてのお祭りを仕えてもらうということで先だって見えましたときに、何かこうずうっとまあ、記念祭を迎えるに当たってと云う、皆いろいろ印刷物がでけております。もうはまっておられる。
 まあそういうお話の中に、先だってもある目の不自由な方をお導きして参りましたら、その方が来る道中から目が見えるようになり、小さいあのタバコに書いてある字までが見えるようになったと喜ばれたと云う話を昨日なさいましたがね、もうとにかくその一心を向けて合楽に通うてくる所にですね、神様はそういう云うならば、働きも見せて下さるね。そういうおかげを頂きながら、なら例えて云うと、またそんなに神様が置いた物をとるようにとばっかりいかんのである。
 右と願っても左、左と願っても右。そこで今云う、石川のお婆ちゃんじゃないけれども、一生が修行だと決めたら、たとえ投げられても、しめられてもそれによって信心を一段高めていくという姿勢。
 最後のに久富繁雄さんの発表があっておりました。いろいろおかげを頂いて居られる話から、この頃なんですか、自家用車ですかの車のおかげを頂かれた。もう車が何台も何台もあるわけですね。まあそれでその乗用車も今度新しゅう購入された。近所の方達が本当に繁雄さん方ばっかりはもうよかこつばかし続くと、チョイとふのよか家じゃあると云うて近所の方達が云うとお話を、息子国雄三夫婦に話しておられる話をなさいました。今度購入された車が七七九六という車体番号であった。国男さんがお父さんこりゃどういう意味じゃあろうち云うて、尋ねられた。
 そこで自分の信心を語られた。七七と云うことは、改まりに改まってと云うことだろう。七という字を漢字で書いてみれね、そのチョイと曲がっておるところをまっすぐにすればプラス(+)という字になるだろうがと、云うなら繁雄さん達夫婦がそれこそ改まりに改まって何十年の信心をさせて頂いておる中に、成る程、七七九と云うそれこそ九はくですから、いろんな苦もあった出背負うけれども、それを乗り越えさせて頂いた向こうに力があった。お徳があった。云うなら光があった。その光に照らし出されておるのが、今日の久富繁雄一家のおかげなんだね。
 七七というのは改まりに改まり、九というのはどんなに苦労があっても、それを乗り越えていく、そこには六と云うお徳に触れられる。近所の人達から云われるように、どうしてあげんふのよかお家じゃあろうかと云われるようなおかげは、そこんところを通ったおかげぞとね。子供達もここん所を伝えていかなきゃならない。
 それには信心は改まりに改まっていく以外にないぞ、どういう事があってもそれを信心辛抱して乗り越えていく以外にはないぞ。そこにあるのが力という話をなさいました。神ながらな事を同時にお話も素晴らしかったと、私は思いました。ね。それにはね、今その石川さんが云われる一生が修行、しかもその修行というのは、楽しゅうして有り難うしてというリズムに乗っての修行である。ね。柔道の道、云うなら和同十全の道をです。いよいよ体得さしてもらい、それが広く深く大きく頂いていこうと云うのですから限りがない。限りがない喜びに向かって信心をさして頂く。私は腹ん中に決められた時に神様の私は喜びがあり、安心がある。もうこの氏子はと神様が安心して下さるということになるのじゃないでしょうか。ね。
 信心の世界とは不思議な不思議な働きがある物です。また自分の心の状態もです、本当に不思議な云うならば、変化というでしょうかね。思いというものが変わってまいります。
 福岡の秋永嘉朗さんが発表しとりましたが、もう私は今日一番おかげを頂いたことはと云うて、話をしておりましたが、先だってむつや呉服店の宅祭におかげを頂きました。そして親先生のお話を頂いている中に、最近親先生がもういよいよ目がうすうなっていかれる、耳が遠うなっていかれるね。だからその段々目が薄うなって見えんようになるかもしれません。耳が聞こえんようになるかもしれません。
 けれどもそこには必ず聞こえない者じゃなからなければ頂けない、聞こえない世界、目が見えないというのが見えない者でなからなければ、味合うことの出けない目の見えない世界がある。私はそれを心密かに楽しみのようなという話をしたことが嘉朗さんの心を捉えた。
 信心とはなんと目が見えません。目がどうぞ開きますように、耳が聞こえるごとということが信心のように思うておる。ね。そういう云うならば、心の世界というものは限りがない広がっていく。私はこの御理解を頂いて今月の最高のおかげはこれだと云うて、嘉朗さんが発表しておりましたね。というように信心の心と云うものはね、限りなく進展して、いわゆる段が上がっていくに従ってです、生神へのいわゆる精進なのですから、ね。我ながら本当に我心に合掌せずにはおられないというような心が育っていくことなんです。だからそれを楽しみにそれにはなら、一生が修行だとどんな場合であってもそれを信心の云うならば、稽古の手だてとさして頂ける心の状態。もうその人の上には苦労はない。
 これも昨日お祭りが済みましてからでしたが、伊万里の竹内先生夫婦が私の部屋に見えられて、今日から市のいろんな人事異動の決定したお届けがございました。市政の上で様々のまあ願いがございまして、裏の方へわざわざ見えて先だってからお祭りの写真が出け上がったからというて、たくさんの写真をもって来て下さいました。
 私はその市の云うなら大切な書類でしょうか、その書類を御祈念さして頂きながらお願いさして頂いとりましたら、わらをね、縄をなうわら。わらをね、あうらいっぱい、それもあのう今、あんな事はしませんでしょうけれども、わらを縄をなうときに、柔らかく打つでしょう。その打ったわらを一束頂いたんです。そして、「和楽」と頂いたんです。わらと云うことを、そしてシルクロードと頂いたんです。
 もう竹内先生あなたの場合は市長としての、どうこうと云う普通の常識からいうて、それじゃなくてもうあなた自身は、和楽の道をしっかり、しかも柔らかく成る程シルクロードという道と云うのは、大変険しい厳しいということですけれども、あれは絹の道と云う柔らかい道と云うんだそうですが、ね、そういう云うならば、いつも自分の心を和楽にしておる柔らかに打ち上げていく。そこからこれはキリスト教の教えの中にある、云うなら何とかあがなう縄のごとしとか、何とかという、その意味は私はしりません。
 けれども柔らかにわらはならしておけば、善いこと悪いこと、それをきれいにこうないあげていくことが出来る。ね。云うならシルクロードの道も、それこそ柔らかい絹のような道だとして頂いていくことが出来る。
 まさしく石川さんの一生が修行と決められた者の上にはもう苦労がない。難しい道のようであっても、それは楽しゅう有り難い柔らかい絹の道だと云うような御理解を頂いたんですけれどもね。そういう道に出させて頂ける楽しみにしていこう、喜びをね、いよいよ分かる為にひとつ本気で構えなければならない。
 もう柔道の稽古すりゃ、投げられるけん、しめられるけんと云うなら、もう柔道はありません。剣道はたたかれるかもと云うなら、もう剣道の稽古にはなりません。叩かれても痛くない道、そういう道をいよいよ目指させて頂く、しかも根、合楽理念に基づいて頂く事になるとね、楽しゅう愉快にさえなれれるという、いうならば信心。
 昨日佐田恒行先生が今度の御本部参拝のまあ、云うならお土産をしておりました。もう行きから帰りまでリズムに乗りに乗ったお話でした。そういう日々がもし頂けるならば、修行生の方達はもうそのまま布教に出てもいいよと云うて、それを聞いてもうしました事でございましたね。そういうリズムに乗っての稽古なのですから楽しいです。有り難いです。             どうぞ